2011年12月28日水曜日

彼岸の心のデリバリーもしたい

多くの人がいるらしい。
会社では仕事に追われ、家庭では家庭を顧(かえり)見ない仕事人間と蔑(さげす)まされ、毎日が地獄の様、何とか抜け出したい、と考えている多くの人々。
嫁と舅が上手く行かず、家族が巻き込まれ、何とか抜け出せないかと考えている多くの人々。
精進(一心不乱に努力)することも無く空(むな)しく日々を送って死ぬ時に成ってから後悔しても遅い。
名医が調合した妙薬を飲まないで病気が治らないのは薬をくれた医者の責任では無い。
二度と無い人生を悔い無く生きるために説かれた教えも、それを聞いた人が日々の生活の中で実行すること無く後々深く後悔してもそれは教えを説いた人の責任では無い。
これをよく理解してからでないと、地獄から抜け出す方法を教えてもらっても単に知識を得た程度で終わり、又地獄へ逆戻りということに成る。
煩悩や迷いに満ちたこの世を此岸(しがん)というのに対し、悟りの世界・仏の世界、極楽を彼岸(ひがん)と言う。もし、これらの人達が気がついて涙でも流し幸せな生活に向けて精進するならば、その涙は地獄から極楽へ、此岸から彼岸への旅立ちを意味している。
仏教は、彼岸の心を教えている。
彼岸の心とは対立する心を調和させるという意味。相手の立場で話し合って家庭の協力が得られるような大黒柱と成れればその家庭は彼岸となる。
彼岸の心とは、垣根の無い世界、差別の無い世界という意味。嫁と舅の垣根を取り払ってしまえばその家族は彼岸となる。
感情に走って相手にぶつけたい思いを一度飲み込んで相手の心が説きほぐれて来るのを待つか、何故自分と対立するのか相手の立場に立って見つめ直し、何かに調和できる方法はないかと蟠(わだかま)りを解きほぐす道を考える。調和できる道をお互いが探り合えば対立は消え調和ができる。この調和や差別を取り除いた世界を極楽といい、仏教はこの地獄から極楽への生まれ変わりの道を教えている。
我は今、勉強し、精進している最中。
お彼岸は、春3月と秋9月の年2回あるが「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる様にお彼岸は季節の区切りであり、寒くも暑くも無く調和している過ごし易い時期だ。期間は春分の日と秋分の日を中日(ちゅうにち)として前後3日間の7日間が先祖の供養のためにお墓参りをする風習となっている。そして初日を「彼岸の入り」といい、最終日を「彼岸の明け」という。
 「国民祝日に関する法律」によると、「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、「秋分の日」は「先祖をうやまい、亡くなった人をしのぶ」と書かれている。まさに仏教の精神そのもの。
これらは彼岸の心を忘れないために、思い出すために設けられた日だ。先祖を供養する事で彼岸への道を開いてもらうためとも聞くが。
発展や幸せ追及には急がば回れではないが、教育が一番早いという。我はネパールに教育の種をデリバリーしている。これからは彼岸の心もデリバリーしたいと考えている。
日本の仏教はお寺が宗教を広めるところなのか、仏教を伝えるところなのか、葬式と法事の会場なのか、お寺というビジネスなのか、仏教の歴史伝達担当課長なのか、未来に向かった幸せ追及や悩み解決を指導できていない、時代にそぐわない気がする。我は実在した仏陀という人物の人生指導が仏教だと解釈している。そのための比喩はあってもいい。その教えが正しく人間らしく生きられるなら。その様に指導して欲しい。ヒントでもいい、与えて欲しい。それをするのが仏教。これはあくまでも我の考えだ。
ネパールでは学校で道徳や倫理、宗教でもいいが、普段の行いや心についての学習が無い。10年生卒業時の統一テストに受かるかどうかが一番重要な授業を推し進めている。
学生子供に限らず、大人も寺院を欲しがっている。仏教でも良いと言う。そう彼らは仏教はヒンズー教の一派だと思っているから。ならば老若男女関係無く彼岸の心のデリバリーができる。
こんな理想を持って、ネパールで彼岸の心をデリバリーしたい。
今日のヒントは、彼は無宗教だと言っていたが、こんな話し相手をしてくれた重機中心の土建屋さんと飲む機会があったからだ。   彦

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